バイオ系の研究室を志望する学部生は何をすべきか―勉強方法の素案―

前回の記事では、生命科学分野の勉強 ―試験や単位を取るための作業ではなく、専門知識の増強や、研究室配属に向けた準備といった自主的な作業(独習)としての勉強― には「生命科学の『語彙』と『構造』を理解することが大切である」と述べた。では、一体何をすればよいのか。今回は具体的な勉強方法の素案を述べる。

 

前提:二か国語で学ぶ

独習者の活動地域が日本であるならば、研究活動のアウトプットは日本語と英語の両方で行うことになる。それならばインプットも日本語と英語で行うのが自然であろう。英語で学ぶために英検1級もTOEICの高得点も必要ない。未知の専門用語は母国語でも分からないのだから、言語の違いなど問題にならない。日本語と英語で学ぶべきである。英語だけでは不十分で、必ず日本語と英語で学ばなければならない。

 

語彙を学ぶ手段

語彙を学ぶ|1. 動画・音声媒体の活用

語彙を学ぶ手段としてお勧めしたいのがMOOCやPodcast等の活用である。活字ベースでの学習の欠点は専門用語の読み方と発音が分かりにくい点である。音声ベースの学習であれば専門用語の意味だけでなく、読み方や発音も同時にインプットすることができる。研究者は基本的にマウントを取りたがる動物であるため、読み方や発音の間違いに極めて敏感である。筆者は学会後の飲み会で指導教員から「有名な○○先生は有糸分裂のMeiosis (maɪˈoʊsɪs)を(meɪˈoʊsɪs)と発音していた」という下らない話を嬉々として語られて辟易した思い出がある。本質的な議論を避け、下らない揚げ足取りを行う輩にマウントをとられないように、動画や音声媒体を活用しよう。「緒言」の読み方一つで貴重な質疑応答時間を潰される悲劇を繰り返してはならない。具体的な教材を以下に示す。

 edx Biology & Life Sciences

MITが提供しているMolecular Biologyシリーズは講義形式の動画であり、生命科学セントラルドグマを英語で学ぶのに最適である。『ワトソン遺伝子の分子生物学』に準じた内容であるため、理解できなかった箇所も書籍でキャッチアップできるのが嬉しい。その他にもハーバード大学Principles of Biochemistryやライス大学のProteins: Biology's Workforce等、様々な講義動画を視聴することができる。余談であるがedxはプログラミングの学習教材も充実しているので、バイオインフォマティクスに興味がある独習者にも強くお勧めする。

iBiology

edxが教科書的な体系立った内容を扱っているのに対し、iBiologyは技術動向や研究対象について扱ったものが多い。光遺伝学や超解像顕微鏡など、最新のトピックが網羅されている。学会に行かずとも一流の研究者のトークが聴ける。高額な参加費も不要。素晴らしい。

LabTube

実験技術や解析手法についての動画が充実している。知名度は低いものの、製薬や疫学関連のトピックや実験手法の原理などを調べる際に重宝する。

 この他にもASSJ代表理事京都大学名誉教授の西川伸一氏が行っている『ジャーナルクラブ』や新進気鋭の若手研究者によるPodcastResearchat.fm』もお勧めである。ここで紹介した教材には、学会でのプレゼンテーションやディスカッションに役立つ技術が濃縮されている。単に図を一つ説明するだけでも「このような言い回しがあったのか」という発見があるに違いない。

語彙を学ぶ |2. 専門書の部分対訳

専門書の通読が非効率であることは以前の記事で述べた。しかし、書籍によるインプットを否定するつもりはなく、むしろ推奨されるべきだと考えている。筆者は専門書の通読に代わる勉強法として専門書の部分対訳を提案する。部分対訳の方法は以下のステップで行う。

1. 専門書の原書と邦訳版を用意する。

2. 興味のある章を選択する。

3. 選択した章の邦訳版を読解する。気になる専門用語や言い回しを記録する。

4. 選択した章の原書を読解する。翻訳版で記録した専門用語や言い回しの表現を比較する。

邦訳版→原書の順番で読む点がポイントである。特にステップ4の読解は大学入試の英文読解の熱量で行う。音読をするのもよい。専門書を通読して、広く浅く理解しようとする行為は非現実的であり、必ず挫折してしまうであろう。そこで、高々数十ページの一章だけを読破するという現実的な目標を設定することで、現実的な勉強法としている。さらに、日英の表現を比較する作業は、将来の論文読解と執筆に向けた最上のトレーニンである。部分対訳の教材に適した専門書を以下に示す。便宜上、初級・中級、上級という表記を用いるが、難易度を表している訳ではなく、独学者が必要とする専門性の度合いを参考できるように用いている。

・ 初級

原書『Principles of Cell Biology』邦訳版:『プロッパー細胞生物学

原書『Cell Biology by the Numbers』邦訳版:『数でとらえる細胞生物学

『Principles of Cell Biology』はBig picture(階層)、『Cell Biology by the Numbers』はNumber(量)、2冊とも従来の形式に捕われない観点から細胞生物学を概観した名著であり、非常に面白く読み進めることができる。

・中級

原書『Fundamentals of Biochemistry』邦訳版『ヴォート基礎生化学

原書『Essential Cell Biology』邦訳版『Essential細胞生物学

もはや説明不要の名著。大学の授業やゼミの教科書に指定されていることも多い。語られることが少ないが『Essential Cell Biology』の付属DVDは非常に作りこまれており、章ごとの解説動画の視聴や、選択式の復習クイズに挑戦することができるため、独学者に最適である。

・上級

細胞生物学:原著『Molecular Biology of the Cell』邦訳版『細胞の分子生物学

分子生物学:原著『Molecular Biology of the Gene』邦訳版『ワトソン遺伝子の分子生物学*1

神経生物学:原著『Principles of Neural Science』邦訳版『カンデル神経科学

発生生物学:原著『Developmental Biology』邦訳版『ギルバート発生生物学

免疫学:原著『Cellular and Molecular Immunology』邦訳版『分子細胞免疫学

 動物生理学:原著『Animal Physiology: Adaptation and Environment』邦訳版『動物生理学―環境への適応*2

植物生理学:原著『Plant Physiology and Development』邦訳版『テイツ/ザイガー 植物生理学・発生学

それぞれの分野の専門書で代表的かつ手に入りやすいものを紹介した。専門知識の必要に応じて挑戦すると良い。上級カテゴリの書籍は各分野で活躍する筆者の知人から紹介された専門書を中心にリストアップしている。専門を外れる分野も多いため、筆者は全ての書籍を読み通した訳ではないことを強調しておきたい。独学者にとってより適した書籍があれば、怠惰な筆者にご教授頂きたい。

 以上が部分対訳の教材に適した専門書の一例である。馬鹿正直に最初から最後まで通読するのではなく、必要や興味に応じた専門書の一部分を集中的に読解することが効率的なインプット方法であると提案する。

 

 追記1:専門書をどのように調達するか

専門書はとにかく高額である。そのため、図書館や古本市場を効率的に活用することを推奨する。大学の図書館に申請すれば、この類の専門書は原書であっても購入してもらえる場合が多い。興味のあるページだけをコピーすれば、持ち歩くのも苦労しない。また、ここで紹介した専門書は何十年にも渡って改訂が繰り返されている名著揃いであるため、旧版が底値で流通している場合も多い。筆者は学生時代にブックオフで『Molecular Biology of the Cell』の旧版が500円で投げ売りされているのを発見し、裁断してPDFを持ち歩いていた。*3

 

構造を学ぶ手段

構造を学ぶ|1. 外部イベントへの参加

長期休暇中には学部生を対象とした合宿形式のイベントが大学、研究機関により開催されることが多い。このような外部イベントには生命科学に熱意を持つ同世代が一堂に会するため、モチベーションの向上に繋がる。将来、学会で再開し、お互いに近況報告をするような人物との出会いがあるかもしれない。さらに、外部組織の研究環境を肌で体験することで、自身が所属する学科や研究室を客観的に評価することができる。有名なイベントとしては国立大学の公開臨海実習(夏頃または春頃に開催)、理研BDRサマースクール(夏頃開催)、基礎生物学研究所大学生のための夏の実習(夏頃開催)、遺伝研オープンラボ(春頃開催)、OIST Science Challenge(春頃開催)等がある。このような各種イベントは大学に必ず告知されている。定期的に情報を集めると良い。本格的に研究を始めている学生に向けては夏の学校という名物イベントが各分野で開催されている。このような外部イベントには、可能な限り研究室に所属する前の学部1~3生のうちに参加することをお勧めする。研究室に所属してしまうと、指導教官の許可を得るという余計な手間がかかる可能性がある。イベントを主催する研究室と自分の指導教官がライバル関係であった……などという、下らない問題が発生する可能性がある*4。しがらみの無いうちに参加するのが良い。

 構造を学ぶ|2. 研究室訪問

気になる研究者がいるのであれば、直接連絡を取って研究室を訪問するのも良い。最低限のマナーを守れば、基本的に訪問は歓迎されるはずである。研究をしたいという旨を丁寧に伝えて、先方が教育熱心な方であれば、何か課題を与えてくれるかもしれない。筆者の所属していた研究科でも、学部2年生位から研究室に出入りして、基本的な実験の手伝いをしている学生をちらほら見かけた。正式に研究室配属されていないのにも関わらず、学会発表を行った者も何人か知っている。イベントで一過的に体験するのではなく、研究室に滞在し、手を動かしてみる。もっと言えば研究室で生活をする。これこそが生命科学分野の「構造」を学ぶ手っ取り早い方法である。

 

 以上、生命科学分野における「語彙」と「構造」を理解するための勉強法を提案した。期待していた講義はつまらない(理解できないだけという非情な現実は一旦忘れよう)。同級生が開催している教科書の輪読会は参加するのはこっぱずかしい。往々にして、輪読会なんてものは真面目な秀才が集うサロンでしかない。根暗な自分が参加するのは不相応だ。生物オリンピックなんて存在も知らなかった。けれども生命科学が大好きで、何かしたくて悶々としている。そのようなバイオ愛好家の一助になれば幸いである。

 

f:id:hanaserebu_umai:20200802182203p:plain



*1:筆者は尊敬する先輩からGenesを推奨されたが、最新版の邦訳が出回っていないのでここでは紹介しなかった。

*2:完全に筆者の専門外であるが、読み物としてあまりにも面白いので一読を強くお勧めする。

*3:決して推奨されるものではないが、これらの名著はあまりにも多くの人が読んでいるため、最小の労力で電子データを手に入れられてしまう場合がある。名著を生み出した著者や翻訳者への敬意を示すためにも将来的には正規に購入して頂きたい。

*4:筆者の実体験である

バイオ系の研究室を志望する学部生は何をすべきか ―生命科学分野の「語彙」と「構造」を学ぶ―


前回の記事では、生命科学分野の勉強 ―試験や単位を取るための作業ではなく、専門知識の増強や、研究室配属に向けた準備といった自主的な作業(独習)としての勉強― のDon’t、「専門書の通読は非効率である」という主張を述べた。今回の記事ではDo’s、何をすべきかを述べる。

そもそも、生命科学分野でサバイブするための能力は「研究室に入れば自然に身につくもの」というのが筆者の持論である。徹夜で解析を行い、学会のオーラル練習で喉を嗄らし、論文の草稿を原型が無くなるほど修正される経験を通じて、「何となく」この分野について「分かってくる」ものである。そのため、学部生のうちは分野外の勉強や課外活動などに注力していても全く問題はない。*1 それでもあえてDo’sを提案するのであれば、バイオ系の研究者を志す高校生や学部生には、生命科学分野における「語彙」と「構造」の理解に時間を割くことを推奨したい。

 「語彙」を理解するということは、生命科学の専門用語、例えば生物の学名や分子複合体の略語を暗記するということではなく、その業界の人々の話し方や独特の言い回しに慣れるということである。前回の記事で指摘したように、生命科学分野の発展は日進月歩であり、新規の発見や開発の成果が毎日発表されている。そして、新規の発見・開発には、新規の名前が与えられる。そのため、生命科学分野で用いられる専門用語の数は毎日増加していると言っても過言ではない。このような状況下で全ての専門用語を暗記するのは不可能である。そこで、生命科学分野の人々が好んで使う「語彙」つまり、話し方や独特の言い回しに適応し、その都度理解していく能力が求められる。全ての専門用語を逐一暗記するのではなく、「『A』という解析の論文では『a』的な表現が頻発している」「『B』という研究対象は『b』的な表現でよく説明されている」というような感覚を身に付けることが重要である。

 「構造」を理解するということは、生命科学分野という業界(アカデミア・ビジネスを問わず)のルールを理解するということである。一般的な生活をしていれば「研究」という活動の実態は不透明である。ましてや職業研究者などという希少動物には出会うことも少ないのではないだろうか。筆者も学部生の時は全くの無知であり、教授というのは実験を沢山するのが仕事だと思っていたし、博士号は3年間努力すれば自動的に与えられる制度だと思っていた。そのため、研究室に配属されて、授業準備や競争資金の獲得に忙殺される教授の姿や、博士課程に8年間在籍している先輩の姿を見て驚愕したものである。大学の退屈な座学や綺麗に体系化された専門書からは、労働集約型で泥臭い生命科学分野の世界を垣間見るのは難しい生命科学分野という業界の「構造」を早期に知ることは今後の人生設計に役立つことであろう。何事も、新たな世界に飛び込む前にはルールを理解することが重要である。

 以上、「語彙」と「構造」の理解に努めることが、生命科学分野の勉強として有益であるという主張を述べた。ある分野の「語彙」と「構造」の理解は、その分野における「思考方法」の理解に直結する。この2つを意識することは、将来の研究活動における大きな糧になるであろう。次回の記事では生命科学分野の「語彙」と「構造」を理解するための具体的方法を述べる。

 

f:id:hanaserebu_umai:20200922205801p:plain

 

 

*1:現にアカデミアで成果を残している人物は、趣味などの研究以外の「一芸」に秀でた方が多いように思う。

バイオ系の研究室を志望する学部生は何をすべきか ―専門書との向き合い方―

バイオ系の専攻(学部)は、理学系の中でも一際バラエティに満ちた人々が集うようである。小さい頃から生き物が大好きで、生物学を学ぶために入学した者。高校では生物を選択しなかったものの生命科学の研究に興味を持ち、大学院進学も視野に入れている者。医学の基礎研究に携わりたいと息巻いている、医学部落ちの元浪人生*1。理系科目が苦手のため、暗記力の一点で入試を突破してきた強者。そのようなバイオ系の専攻進んだ者が一度は思うことがある。それは「生命科学分野の勉強は何をすればよいのか」という疑問である。

 

 ここで用いる「勉強」とは、試験や単位を取るための作業ではなく、専門知識の増強や、研究室配属に向けた準備といった自主的な作業(独習)としての勉強である。

 

生命科学分野の独習者が始めに挑戦するのは専門書の通読であろう。『キャンベル生物学』『Essential 細胞生物学』『ヴォート生化学』そしてラスボスの『細胞の分子生物学*2……あげればキリがない。大学図書館でこれらの専門書の背表紙を眺めた時は、獲得すべき知識の広大さに圧倒され、高揚感に胸躍ったのではないだろうか。自分もその一人であった。

 

 しかし、独習のために専門書を通読するのは非常に効率の悪い勉強法である。その根拠となる理由を2つ述べる。

 1つ目の理由は忘れるからである。残念ながら大学の中にはそれなりの数の天才がおり、化け物じみた理解力と記憶力をもって専門書を乱読する輩がいる。基本的に大学教員はこの類の化け物なので、数十年前の学生時代の経験から、生命科学分野の勉強法として専門書の通読を奨励するかもしれない。しかし、天才ではない限り、専門書の通読はお勧めしない。あなたが凡人であるならば、必ず忘れていく。現在の生命科学は一周して博物学の様相を呈しており、あまりにも覚えるべき登場人物が多すぎる。改訂版が出るたびに数百ページの肥大化を繰り返すので、「基礎」「エッセンシャル」などと銘打った縮小版が出版されている。生命科学分野の専門書は読み物、というよりも辞書として考える方がよい。そのため、最初から最後まで専門書を通読するという行為は、辞書や百科事典を通読する行為に等しいと筆者は考える。あなたが凡人であるならば、専門書の通読は非常に効率の悪い勉強法である。

 

 2つ目の理由はオーバーワークに陥る可能性があるからである。生命科学分野に関わらず、研究室で与えられるテーマは極めて専門性の高い、細かなものに設定される。例えば、遺伝学研究室に配属が決まり、エボデポ寄りの遺伝学の自習をすすめていても、研究室で与えられるテーマが核膜孔複合体の機能解析といったゴリゴリの分子生物学になることも日常茶飯事である。もちろんConnecting dotsという言葉があるように、獲得した知識が無駄になることはなく、必ず役に立つ瞬間は訪れるであろう。しかし、学部1~2年生で専門書の通読に挑戦するのは(しつこいようであるがあなたが凡人である限り)オーバーワークであると断言する。専門書に真正面から向き合うのは研究室に配属され、研究内容が決まってからでも決して遅くはない。生命科学という分野は著しく細分化・高度化されている。博士号を持っている研究者であっても、専門分野がタンパク質であるならば、細胞について書かれた論文を読むのには時間を要するかもしれない。ましてや生態学の論文は読んで理解するのすら難しいであろう。学会やシンポジウム等で同じ領域のセッションであっても、対象の分子が違うだけで全く話についていけないということもしばしば発生する。経験豊かな研究者であっても、多かれ少なかれ専門外の分野を理解するのは苦労するのである。ましてや学部生の段階でそれを行うのは、非常に効率が悪いのである。

 

 「人間は忘れる生き物である」「生命科学は多様化しすぎている」以上の2点から、専門書の通読は生命科学分野の勉強法として非現実的であると筆者は考える。勿論、専門書の通読という作業が万人にとって棄却されるべきだとまでは主張しない。研究活動が始まれば、否応なしにも読まなければならない時期がくるものである。それまでは無理して読むことはないというのが筆者の主張である。

 

 

f:id:hanaserebu_umai:20200801190819p:plain



 

*1:しばしば彼らは医学部に「栄転」する

*2:筆者が所属していた研究科ではこの分厚い書物が神格化されており、この本を通読すれば全知全能の紙になれるかのような扱いを受けていた。The CELLは文句のつけようのない「生きた」名著であるが、高々1,584ページに収まるほど生命科学は狭い学問ではない。